恐怖の渦とその中心。
朝、目が覚めると、頭の痛みも、いつの間にかすっかり治り、視界も、どことなくスッキリして見えた。
「ーーくらげ…さん?」
ーー…夢?
昨日のことが、全て夢に感じる。
奈々は、昨日のことを思い出しながら、部屋の天井にある壁画を、ぼーっと眺めていた。
すると、突然。クリアになった視界に、ピンク色をした、ぷるぷるな半透明の物体が、全面に現れた。
「ーー奈々っ!おはよう。」
「…おはよう。くらげさん。」
夢でなかったことに、安心している自分がいた。
「今日はどうする?やっぱり、抜け出しちゃう?」
くらげは、嬉しそうな顔ではしゃいでいる。
全く…。こちらの苦労も知らないで。
と、思ったが、あまり悪い気もしなかった。
くらげと奈々が、くだらない談笑をしていると。
コンコンと、扉をノックする音が聞こえた。
「ーーナナリア。帰ったよ。」
凛々しく、そして、優しくあたたかい声。
「ーーお父さまッ。」
奈々は、扉の方へ急いで駆け寄る。
くらげは、慌ててベッドの下へと身を隠した。
扉が開いて、すぐに奈々は、強い力で抱きしめられる。
「ただいま、ナナリア。」
男性嫌いな奈々であったが、その大きな胸の中で、安心こそ覚えた。
「おかえりなさい、お父さま。」
安堵からか、奈々の目に涙が少し浮かぶ。
体を離すと、優しい目で微笑む父の姿があった。
レイと同じ銀髪の綺麗な髪に、端正な顔立ち、青い目もレイと同じなのに、レイの奈々を見る鋭い目つきとは違い、そこには優しさが宿っていた。
神々しい佇まいは、威厳を思わせるが、父の人柄であろう、彼の周りの人間は、常に笑顔で穏やかだった。
ナナリアも、そんな彼を慕っている一人だと、奈々は感じた。
「ナナリア、調子はどうだ?
昨日は、またいたずらをしたらしいね。
まぁ、元気なのは良いことだからね。」
そう言うと彼は、楽しそうに笑った。
「ーーすみません、お父さま…。」
どこかバツが悪い気がして、奈々は俯いた。
ふわっと頭の上に、大きな手が乗る。
その手が、優しく奈々の頭を撫でると、ふっと彼が笑う声がした。
「ーー大丈夫だよ。
でも、気をつけないといけないね。
ナナリア、おまえはあまり人の目に触れては危ないんだ。
おまえが危ない目に遭うのは、私も嫌だからね。」
そう言うと彼は、再び奈々を抱きしめる。
「ーー安心して。
私とレイは、おまえの家族だ。
ここにいる者すべて、おまえの味方だよ。
私が、何があっても、おまえを守ろう。
だから、ナナリアが心配することは、何もない。」
「ーーはい…。」
そう言った彼は、まるで、昔の優しかった頃のレイを思わせた。
彼は、しばらくナナリアの部屋でくつろぎ、今回、訪問したであろう街の、可愛いお菓子や、うさぎのぬいぐるみを、ナナリアへと送った。
そして、職務があると、ナナリアの部屋をあとにした。
「はぁ…。人目に触れてはいけない…か。
一体、ナナリアは、何をしたというの。」
ナナリアの古い記憶を辿っても、何ひとつ、それに繋がる手がかりは、見当たらなかった。
「ーーちょっと!奈々っ!」
ベッドの下に潜り込んでいたくらげが、勢いよく奈々の前に飛び出した。
「何今の、めちゃめちゃかっこいい人は!」
きゅるるんとした目を、さらにキラキラさせ、クラゲは、こっちをじっと見てくる。
「…お義父さまよ。私を、このお屋敷へ養女として迎え入れてくださった方。
身寄りのない私に、沢山の愛情を注いで育ててくださったの。」
実を言うと、このお屋敷にも、ナナリアの居場所はなかった。お屋敷の人々は、何故かナナリアを怖がり、いつも怯えていたし、物理的にも、それなりの距離を取られていたので、ナナリアに近づくものは、父とレイくらいだった。
そんなお屋敷の生活でも、寂しさや不安に耐えられたのは、優しい父の存在があったからだ。
ナナリアの中にある、何とも言い難い孤独を感じながら、奈々は、また少しだけベッドにもたれ掛かり、目を閉じた。
(なー。)