あの頃と今。
ーー「…尋の場所は分からない。
私も…尋を探してるの。」
ナナリアの答えに少女奈々は微笑む。
「…そうなんだ。
嘘じゃないようだね。
なら…私があなたより先に尋を見つける。
悪いけど…尋は渡さない。
もう…離れたくないの。ごめんね。」
そう言って少女奈々は、その場から背を向け歩き出す。
ーー「待って…!」
考えるより先に声が出ていた。
少女奈々は驚きから足を止めたが振り返らない。
「…尋は…。尋は…渡さない!」
少女奈々は振り返らない。
振り返らずに微笑む。
その微笑みは勝ち誇るものではない。
悲しく。また、寂しいものだ。
そして、次は振り返るとナナリアへと少女奈々は近づく。
硬直するナナリアの肩に手を置き、耳元で何かを囁いた。
「….…….……」
そう囁くと、少しまた笑みを浮かべ、少女奈々は、再び歩き出し、濃い霧の中へと消えて行った。
ーー「奈々…。今のって。」
クラゲが困惑して奈々の周りをふわふわと世話しなく動き回る。
「あれは…幻?」
肩に置かれは手の感触がまだ残っている。
囁かれた時、耳元に熱い息が吹きかかるのを感じた。
言われた言葉を思い出し耳が熱くなる。
「『もっと好きになった?』」
あの頃より…もっと?
あの頃からずっと。
今からもずっと。
私はずっと尋に恋してる。
「もっともっと好きになった。」
尋に言われた言葉が少女奈々の言った言葉と重なる。
嬉しいよ。私は。
でもあの頃の私が寂しがる。
だけど。もっともっと好きになって欲しい。
私は相変わらず強欲だ。
あれは。幻なんかじゃない。
(なー。)
あの頃と今。
深い霧の中、これは幻なのだろうか。
少女奈々は、目を逸らすことなく真っ直ぐナナリアを見つめる。
その目線は冷たいながらも瞳の奥は吸い込まれる程にどこまでも澄んでいるように見えたが、どこか歪であやふやなものが瞳に少し影を落としていた。
ナナリアが少女奈々から目を逸らすと、
少女奈々から長い沈黙を破った。
「…尋は。尋はどこにいるの。」
強い口調と直球な言葉。
ナナリアは、あぁ、本当に私なんだと思った。
「………。」
言葉がうまく出て来ない。
「私の尋を返して。」
少女奈々は返答を待たずに続ける。
「………え?」
思考が追いつかない。
これは一体何が起こっているというのだろう。
「あなた…私じゃないの?」
ナナリアの質問に少女奈々が楽しそうに笑い出す。
「我ながら間の抜けた質問だね。
見たら分かるように、私はあなた。
10年前のあなただよ。」
その言葉を聞いてナナリアの思考は完全に停止する。
「なんで私が私に…何の用事かって?」
言葉が出ない代わりにナナリアは小さく頷いた。
「…わからないんだ?
そりゃそうか。あなたは尋との未来を約束したんだもんね。私が欲しくて欲しくて仕方なかったものを。…でもどうして?
なんで私じゃないの?
ずっと…ずっと好きだった。私だって尋と一緒に生きたかった。私が全部悪いよ?でもね…」
ーーそうか。これは昔の私だ。
そして、今も心の中にいる私だ。
胸が苦しくて痛い。涙が自然と溢れる。
これは、私の孤独と罪だ。
行き場の無かった想いと後悔。
もしあの時、ああしていれば。
もしあの時、あの選択をしなかったら。
もしあの時、もっと違う道を選んでいたら。
もしあの時、全てを捨てられていたら。
もしあの時ーー。
何だこの感覚は…。
そうか怖いんだ。
あの頃の大好きだった思い出が消えてしまうのが私は怖いんだ。
嫉妬…?
今の私にすら、あの頃の私は嫉妬するのか。
我ながら馬鹿っぽい。
あの頃の私も愛して欲しいなんて。
意味がわからなすぎる。
今目の前にいるのは今のふたりなのに。
(なー。)
崖の上から見下ろす世界
奈々がいない世界なら要らない。
そう考えると、ここに存在することすら違和感が出てくる。
上手く笑える時もあるが、どうでも良くなってしまう時もある。
突発的に存在すること自体に拒絶してしまうようだ。
そんな時は、町を見下ろせる場所に行ってしまう。
ここから飛び降りれば、この世界から居なくなれる。
奈々が居ない世界に何の未練もない。
町を見下ろす。
全てがちっぽけで、全てが遠い世界に思える。
「飛び降りるの?」
酷く冷静な声が聞こえる。
幻聴だと思った。
自分自身の声に思えた。
「そこから飛び降りるの?」
今度ははっきりと耳元で聞こえた。
振り返ってみる。
それは、ふわふわと浮かんでいた。
あの頃と今。
どれくらいの時間、空の上で過ごしただろう。
ナナリアのお屋敷からは、かなり離れた場所まできたのか、見慣れない景色と動植物が増えてきていた。クラゲの上はぷるぷるなのに人が乗ると収まりが良く、なんとも言えない心地よさがある。子供の頃夢に見るような、大きなプリンの上に乗ったならこんな感じなのかもしれない。
ナナリアはいつの間にか眠りについていた。
ここ数日、色々なことがありすぎた。
その疲れからか、熟睡してしまっていたようだ。
目を開けると空には月が登っていた。
ひんやりとした空気に少し肌寒さを感じると、辺りが暗くなっていることに不安を覚えたナナリアは、クラゲの上から下界を見下ろした。
木々が覆う地面。どうやら森のようだった。
辺り一面緑が覆う中、しばらく進むと、そこにはいきなり異様な光景が広がっていた。
木々が連なる先に、急に何もない穴が出現していたのだ。
どこまでも深く暗い大きな穴。
そのぽっかり空いた穴が自然に出来たものではないは見てわかった。
「何…あれ。」
「…私はここを通って奈々のお屋敷まで行ったけれど、あんな大きな穴、この前まではなかったはず。」
くらげが不思議そうに穴へと向かっていく。
ーー「…♪〜。♪〜…。」
聞き覚えのある歌が聞こえる。
忘れるはずがない。尋が出会った頃に良く聴いていた歌だ。
ナナリアが地に降り立つと、辺りを急に濃い霧が包み込む。
「…尋?…。」
ナナリアはそう言ってすぐに違うことに気づく。
「……でも、この声って。」
霧の向こうから、人らしき影が歩いてくる。
ショートカットの茶色の髪に紺色のブレザー制服、胸元には赤いリボン、潤んだ目にそぐわない不敵な笑みの少女。
「………奈々。」
クラゲがナナリアではなく、その少女に向けてそう呼ぶ。
ーー私だ…。
ナナリアの目の前に、10年前の…
尋と出会い、そして恋に落ちた。
あの頃の奈々が立っていた。
何もなくても笑える。
涙が止まる。
涙が止まると、本当に何もかも失くしてしまったような気がした。
ハルルンが心配そうにヒロを見ている。
ヒロは優しく微笑む。
「ごめん」
ヒロは、誰かに自分を見せることを嫌っていた。本当の自分を見せることが誰かを悲しませるような気がしたから。
「変なとこ見せた、ごめん」
ヒロはそう言って、笑った。
何もなくても、笑える。
何もなくても、笑顔が作れる。
「大丈夫?」
ハルルンが訊く。
「うん、大丈夫だよ。何も問題ないんだ」
問題ないなんて思わなくても、問題ないと言える。
できるだけ陽気に、心配させることのないように。
空っぽな自分
空っぽだ。
奈々がいないと、空っぽだ。
どの世界にいても、どこにいても、奈々がいないなら、全てが無意味に思える。
空っぽだ。
ヒロは、立ち止まって空を見上げる。
空っぽだ。
空っぽなのに。
何故か涙が出た。
何もないのに。
自分でも止められない涙が出た。
拭うことも忘れて、空を見上げた。
もう何もない。
何もない。
孤塔からの脱出。
「ーー奈々!こっちからなら行けそう!」
クラゲはナナリアの部屋の窓から外を覗いていた。
ナナリアもクラゲの元へと駆け寄る。
どこまでも続く青に、際立って大きい入道雲の数々、目が眩むくらいの光に視界を遮られ、下を見ると、遥か下に薄ら地面が見えた。
「でも…この高さじゃ…。
とてもじゃないけれど、降りれそうにないよ。
私、魔法だって使えないのに…。」
窓の縁に、無気力に腕をのせ、だらっとまた外を眺める。
魔法の世界だと知った時、奈々は少し期待した。
何もない自分に、もしかしたら今度こそ、何か出来るための力が備えついてくれたんじゃないかって。そんなお手軽な力など存在するわけがないのに。
天才だって努力するんだ。レイはこの世界ではかなり優れた天才的な魔術師で、神童だと昔から周りに言われており、人々からの信頼も厚かった。さらに努力家である彼は、日々の鍛錬や研究にも抜かりが無く、自分にも他人にも厳しいため、人に気を許し笑う姿など、ここ何年も見ていない。
それに引き換えナナリアときたら、のんびりこの塔で何をするというわけでもなく、1日の大半を読書に費やし、妄想にふける毎日だ。その中で与えられた使命や期待を完璧にこなす日々。自分の意思などもはや存在しない。なのに、妄想の中の自分はいつも自由だった。体も軽く、どこまでも飛んでいける。そして、誰かのために頑張れる、そう、スーパーヒーローみたいな。そんな妄想を頭の中で繰り広げては、底知れぬ無力さと孤独を知り、自分とともに妄想を消していった。
「ここから…広い場所へ。もっと遠くへいけたら…。」
変わりたいと常に思っていた。
それと同時に恐怖を感じていたんだ。
いつだって失敗を恐れて、だから完璧に。
完璧に何でもやろうとして、極端になっていく。
やることは全て完璧にこなす。
周りの期待に、好意に応えたいから。
でも、出来ないとわかっていることは、全くやらない。
目の前のことを完璧にこなしては、
本当にやりたいことから目を背け、
変化を怖がり、人を怖がり、自分を嫌った。
変わりたい。でも変われない。
どうしたらいい。
そんなのもう分かってるのに。
「ーー奈々。私に任せて…ッ!」
そう言うとクラゲは窓から外へと飛び出した。
クラゲの綺麗な半透明な体が日の光に照らされ、キラキラと輝いている。
まるで時間が止まったかのように、奈々の目にその姿が眩しく焼き付いた。
何年?何年も悩んでいたことだ。
何年も苦しんだことだ。
それをこの一瞬で…?
困惑する奈々を尻目に、クラゲは窓の外へ宙を舞うと、外の空気を大きく吸った。
すると、みるみるうちに空気はクラゲの体内で膨らみ、あっという間にクラゲは何倍にも膨れ上がっていった。
「ーー奈々、私に乗って!」
クラゲが目を輝かせ、奈々へと訴えかける。
「……でも……。私、やっぱり…。」
奈々は未知への恐怖で震えていた。
ここを出たら、全てが変わるだろう。
あんなに望んでいたのに、これは杞憂なのだろうか。変化することがリアルに目の前に現れたことへの恐怖だろうか。恐怖は度々、人を弱くしてしまう。
クラゲのキラキラした目が真剣なものに変わる。
「………奈々、きて!
……尋が。……尋が待ってる!!」
目を閉じると、優しく微笑む尋の姿が蘇る。
『奈々…ほら、大丈夫。深呼吸して。』
乱れた呼吸に気づく。
真っ白になった頭の中が尋で満たされていく感覚。
息を大きく吸って、吐き出した。
不安、迷い、ネガティブな心、すべてを吐き出した。
自分の体じゃないみたいに、驚くほどに体が軽い。
塔の窓から外へと軽々飛び越えた奈々を、
クラゲは優しく全身で受け止める。
どこまでも続く広い外の世界。
今まで感じたことのない、とてもポジティブな気持ち。
もう迷子になることはないだろう。
目的地はもう決まっているんだから。
(なー。)